直木賞作家の白石一文は僕と考え方が似ている、もしかして彼の人生のテーマは”愛”ではないだろうか新作の「記憶の渚にて」を読んでそう思った、以前読売新聞に掲載されていた記事で「この世界を考える契機に」という本の紹介の記事がありなんとなく気になっていたのでスクラップしておいた、数日前にスクラップ帳をめくっている時にいろいろな記事のスクラップの中でこの記事が眼にとまり「記憶の渚にて」を買うきっかけとなった
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同世代の作家白石一文について
1958年生まれのこの作家白石一文さんは全く知らない作家だった
僕と考え方が似ているのは同じ年にこの世に生を受けたことにも関係があるのだろうか
読み終わって速攻で白石氏の別の作品を読んでみたいと思った
またもう一度この記憶の渚にてを読みなおしてみたいと思った
しかも読み終わってすぐにだ
こんなふうに思う作家は
僕にとって村上春樹だけである
村上春樹の作品とは似ているわけではない
ただテーマの設定の仕方や
作家の考えるこの世界に対する思いが
非常に良く伝わってくるということが
白石一文と村上春樹の共通するところかもしれない
読売新聞の記事の中で白石一文は言っている
「僕のは小説で伝えたいことがある、この世界について僕はここまで分かった、世界とはこういうものではないか、と」
またこうも言っている
「僕は歯ごたえのないものは書かない、わかりやすいものばかり書けば小説はこの程度のものだと思われてしまう、いくつもの謎の先に訪れる結末は、混乱するかもしれないけれど、それで頭を柔らかくしてもらうのも僕の役目だと思っている」
僕はこの本を読もうと思ったきっかけは
この記事の白石一文のコメントを読んだからである
まさにお見事!!!ッて言いたくなる
読む前の僕の直感と読後感にはまったくといっていいほど違和感がなかった
おそらく僕が期待していた内容に
限りなく近かっただからだと思う
一度だけ読んで、離れてしまう作家と
違う作品も読んで見たくなる作家がいる
人それぞれみんな考え方が違うように
リピートしたくなる作家というものは違って当たり前
しかし決して優れた作品を書く作家がいいとは限らない
自分と考え方が似ていると思える作家こそが
同じ作家の違う作品を読んで見たくなる要素の一つだと思う
僕は久々に速攻で記憶の渚にての前の作品を読みたくなった
この作品は白石一文の最新作だからだ
記憶の渚にての1章
この作品は1~3までの3章で構成されている
この作品は
作品のテーマである「記憶」ということばが哲学としてあつかわれている
僕は作品のあらすじを書くような野暮なことは絶対にしない
テーマについての僕なりの考え方を書いていくとする
物語のきっかけ
きっかけは主人公が子どものころの話がキーポイントになる
それは主人公の記憶というよりも
人の記憶
というこの本のテーマにつながってくることなのだ
舞台は東京より西に位置する東西に長い海沿いのとある小都市となっていて
明らかにはしていない
この町に住んでいる主人公?が
家の近くの城址公園に桜の花見に行ったことがきっかけである
この時点ですでに読んだ場所を何度も読み返してしまうほどわからない内容を含んでいるがそれらがあとからキーになってくることばかりであるのであまり気にしないで読み続けるべきである
1章で起こったことがきっかけで
なぞなぞ探しが2章に受け渡される
ここでは色々ななぞなぞがたくさん出てきて何も解決しない
こんなんで最後までにどんな解決方法が見つかるのかと心配になってしまう
そんなミステリー的な要素が含まれていて小説として面白い
しかしあくまでもこの「記憶の渚にて」は哲学書である
2章に入る
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記憶とは大海のごとし
記憶について作者が自分の具体的な考え方を話し始める
主人公が考えるというよりも作者である白石一文氏自身が考えていると思っていいであろう
「記憶とは記録+因果」
と言っている
要するに人の記憶はその人によって作られるもので
実際に起こった事実ではない
ということである
実際に起こったことが
記録
であり
その記録である物事に自分がかかわったことが
記憶
として残るのだ
その記憶には
実際に起こったことに対して
自分の因果がプラスされていることになる
だから一つの物事には
それにたずさわった人の
それぞれのかかわり方(因果)によって
違う記憶が生じる
だから過去に同じ場所で同じ物事を体験しても
人によって
人の因果(かかわり方)によって違う記憶になってしまうということである
新聞の記事中で白石一文はこうも言っている
「記憶というのは自分の内部に存在するのではなく、私の外部に大きな海のようなものとして広がっているのではないか」
面白い
実に面白い考え方だ
僕は絶対にこの考え方に賛成だ
過去から現在までの色々な人々の記憶は
どこか一か所にまとめられていて
僕らは生きている中でそのクラウド(記憶の海)と
気付かぬうちに
常に交信しているということを暗に言っているのだ
たとえば奇妙な出来事
デジャヴ既視感とか
インスピレーション
虫の知らせ
なども説明がつくのである
人は気付かぬうちに未知と更新している
クラウドと前世の記憶と自分の世界感
僕は自分の世界観を大切にしている
そして人の世界観も理解しようと努力をしているのであるが
なかなか理解できるものではない
しかしこの白石一文の世界観は僕に似ている
これはこの「記憶の渚にて」一冊読めばわかることである
それほどインパクトがある内容であった
だから彼のほかの小説も読みたいと思うのだ
そしてこの記憶の渚にても再度読みなおすであろう
この三章はこの小説中の数ある(あり過ぎる)なぞなぞを
一気に説いてゆく
鮮やかな展開は見事なのだがその内容をここでいうわけにはいかないし
是非とも読んでいただきたい
再三いうが、この小説は哲学である
人生のふとした悩みや疑問
生きづらさを解決してくれる
解決ではなく
ひも解く手伝いをしてくれるだろう
悟りの木
悟りの木は最初から最後までこの物語の本当の主人公である
その主人公はいい意味で色々な人に影響を与えるのである
たとえば一人の人間の現生と過去生、未来生
他人生と自分生のかかわり
世界中のあらゆる時代のあらゆる生(せい)
それらと自分とのかかわり
これは人だけにとどまらず
生きるもの
過去に生きたもの
これから生まれるもの
などなどあらゆるモノにかかわりを持つ
そんな悟りの木である
イアン・スティーブンソンの前世を記憶する子どもたち にもあるように
人はあらゆるモノごととつながっている
実生活の中での
人種の違いとか
国の違いとか
年代の違いとか
性別、生物上の違いとか
そんなものは全くといっていいほど
関係なくつながっているものである
ようは時間と空間は
生きもの同士のつながりとは関係性がない
実生活上で見える物がすべてではない
見えないものの方に
大切なものが多く含まれている
そんなことを説いているのである
まさに哲学ではないか
それも最高に良質の、、、、、、、、
今現在生きている自分の体は自分ではなく自分の容器のようなものであり
大切なのは
自分の容器ではなく
自分の魂であり生まれ変わって変化して変わりゆくもの
である
ではそんな僕らの住む世界とはいったいどんな世界なのだろうか
ということをこのように表現している
世界は燃え尽きることのない炎のようなもので、常に形を変えていて、決して安定を得ることができない。一瞬一瞬の炎の形が何ら意味をなさぬように、炎それ自体にも未来永劫、これという定まった意味はなく、完成もない。世界には過去も未来も、さらには現在もない
さらに
<世界史と個人史は交わることはない>
<神と私は両立できない>
ここで神と私は両立できないという言葉に違和感を感じたのだ
僕は自分=神であると思っているので
常日ごろ、、、
すると次のフレーズが
<私は私たちに帰ることによってのみ神に近づく>
と、、、、来たもんだ、、、、
これにはかぶとを脱ぎました
負けたと思った(完全に僕の負け、、白石一文の勝ち)
<私は私たちに帰ることによってのみ神に近づく>
とはまさしく私と私たちは
同じではないが同じでもある
これは時間や空間を超越した考えであり
なおかつ
すべてのものは一つのものである
という哲学でもあるのだ
こんな内容の哲学がいたるところにちりばめられていて
物語は数々のなぞなぞは短い3章の中で
見事に解決されていき
一気に終焉する
しかも考えることという余韻を残して、、、、
白石一文の渚にてPart2
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