このページは村上春樹の騎士団長殺しの優れた文章を服の着こなしに応用するかという内容であるということを再度記載しておきます、今回は2回目です
騎士団長殺しの登場人物の免色渉(めんしきわたる)はフィッツジェラルドの「華麗なるギャツビー」の主人公のギャツビーに似ている
(華麗なるギャツビーは村上春樹自らもっ翻訳している小説である)
どこが似ているかというと、彼がかもしだす雰囲気がだ
村上春樹は別にこの二人を意識して書いているわけではないと思うが
春樹はおそらくこの二人のことを好きなのだ
だから無意識のうちにこのような設定になっているのではないか
僕の勝手な憶測であるが、、、、、、
さて、この記事は「騎士団長殺し」の小説の中のセンテンスを服の着こなしに活かすというテーマで書いている
この記事は2回目であるがまだまだ続くと思う
前回は この物語に度々登場する肖像画を描くためには立体的な構想力が必要でそれは服の着こなしにも活用できるということを書いた
今回は立体的な構想力はどのようなものでありどのように活用するのかを話していきたい
この記事のタイトルは
見た目の形と本質の形を繋げる方法は客観的に対象物を見ることから始まり中まで見極めることが唯一の手段
なんか気難しい記事タイトルになってしまったが要は自分の本質を見極めることが着こなしを左右するということである
それには他人目線の自分見ができることがカギになるのだ
服は着る人がいないと完成されたものにはならない
それと同じ意味で人は服を着ることによって完成されるということである
衣食住の衣が一番先に来るのは
それほど人間が生きるための生活条件に服が重要であることの証明でもあるからだ
さて本題の着こなしの話に入ろう
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見た目と本質
形には見た目と本質がある
言い方を変えると
フォルム(見た目)とフォルムの中に隠されている実態(本質)ということもできる
P76にこんな文章がある
主人公が学生時代に描いていた絵画に対しての思考として
私がかつて夢中になって描いていた作品は、要するに「フォルムの追求」に過ぎなかったようだ。青年時代の私は、フォルムの形式美やバランスみたいなものに強く惹きつけられていた。それはそれでもちろん悪くない。しかし私の場合、その先にある魂の深みにまでは手が届いていなかった。そのことが今ではよくわかった。私が当時手に入れることができたのは、比較的浅いところにある造形の面白みに過ぎなかった。強く心を揺さぶられるようなものは見当たらない。そこにあるのは良く言ってせいぜい「才気」に過ぎなかった。
これは服の着こなしにとって非常に当てはまる表現である
要するに見栄えばかり気にして中身が無いファッションは
着こなしを甘く見ているとこういうことになる
世間で言う良い服はイコール自分に似合う服ではない
どんなに形の美しい服を着ても
どんなに形の美しい服を追求しても
それに見合った人が袖を通さなくては猫に小判であり
良い着こなしには程遠いということであり
見栄えを気にする行為は金があればできることではない
小判(金)よりも愛を追求する人のほうがより正しい見栄えを手にすることができるのだ
さらに言うならば見栄えの良し悪しはそんなところには潜んではいない
良い着こなしができている人は高級な服が見栄えの良さであるなどとは微塵も思っていないということを認識するべきである
衣食住の衣は時と場合によって必要なアイテムが違ってくる
ジャングルのような危険なところで必要な衣は体を守るためのサバイバルアイテムであり
家の中でくつろぐためにはサバイバルアイテムはいらない
そのような場所ではもっとリラックスできるカットソーのような楽な服が合う
それと同じことを言っているだけなのだが
そこに着こなしという感性を求められると人はカッコよさを求めることに先走ってしまう
愚かなことであるが
着こなしのお洒落を理解していない人は
服に感性を求めてしまう
感性が必要なのは
服ではなくて自分自身であることを忘れてしまうのだ
(いやわかっていないのだ)
この騎士団長殺しの文章は
主人公がまだまだ経験が浅い学生時代であったため
造形の面白味に心を奪われてしまい
魂の深みにまでは手が届いていなかったといっているのだ
魂に着せる服装術を身に付けるにはいたっていなかったということと同じことである
しかし人は色々な経験を踏まずに魂にまで至ることは永遠に無いのである
人は良く言う
「ブレない生き方」をしなさい
しかし僕は大反対である
ぶれまくって人生の幅を知ることを経験していない人
そんな失敗を繰り返していない奴に
「ブレない生き方」ができている奴はいない
ぶれまくった経験をたくさん経験して
そこにある自分らしいかけらをいかにたくさん拾ってきたかが
自分の今の人生の塊の一部になっているからである
頭でっかちにやみくもに
ブレない人生が大切なんてことを言っている奴らは
張りぼての軽い大玉ころがしに過ぎない
http://decodolphin.net/t-shirt-15/
さて優れたフォルムは
服の色や柄や形の美しさであり美しい絵画でもある
しかし本物の美しい絵画や素敵な着こなしには
その奥に潜んでいる物語があるということである
上っ面の美しさだけしか見ていない人には
本当にかっこいい着こなしの意味すら分からない
「良く言って才気である」
ということは頭だけで理解しているつもりになっているということと等しい
優れたフォルムを身に着けるということは
長い人生の間の様々な経験がそこにあるか無いか
その経験がお洒落を意識して
なおかつ繰り返し実体験として失敗を繰り返してきたかどうかにかかっている
ピカソは青の時代の完璧なデッサンに基づく絵画を捨てて抽象的な絵やキュビズムのような立体的な作品に転じた
ピカソの創造的破壊はここにあるのだ
ピカソ2★美女が語る正体|破壊して分解して内臓をえぐりだし絵を創造する
http://decodolphin.net/picasso-3/
そしてこの想像的破壊こそが昇華し次の人生のステップを踏むことになる
それはブレまくった結果がもたらしたものではないのか
ここで一番大切なことは
それらの経験と体験を生かして自分の方向性を変えることができるかどうかということである
今までの自分をより良くするために今の自分を捨てる
今の自分の考え方の方向を変えることができるか
それにかかっているのだ
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転向と昇華
P78にこんな文章がある
主人公が借家している家主である日本画家の話である
彼は洋画家という自分の立場を捨てて日本画家に転向したのだ
日本画の筆をとってからの彼の作品は、彼にしか描けない何かがあり、彼自身もそのことを自覚していた。そして彼はその「何か」の核心に向けて、自信に満ちた足取りでまっすぐに進んでいった。そこには洋画時代の「何かが欠けている」という印象はもう見受けられなかった。彼は「転向」したというよりは、むしろ「昇華」したのだ
この短い文章の中にはとても大切な意味が含まれている
発想の転換が人生の価値観をも変えてしまい
それは転向ではなく昇華につながるということだ
そこには誰も持っていない自分だけの個性が存在する
存在するというよりも
自分に本当に合ったものと出会うことができたというべきかもしれない
それを自分で探しあてたのである
それ(探し当てたもの)は一般的には完璧なフォルムではないはずだ
完璧な人間がいないのと同じように
完璧なフォルムが一番似合う人はいないのだ
だから自分にだけにしか存在しない
自分だけの個性を見つけ出して自分のモノにするということはその人だけが似合う物事であるのだ
服装もしかり
自分に似合ったものを探し出し身に着けることは
単なる転向ではなく
昇華(ある状態から、更に高度な状態へ飛躍すること)に他ならないのである
それを見付ける旅こそが
この本の中で言う優れた絵画であり自画像である
そして優れた着こなしを探す旅も昇華することである
それにはぶれるという過程を経験した上での方向転換であり
それは昇華(ある状態から、更に高度な状態へ飛躍すること)につながるのだ
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まとめ
この本「騎士団長殺し」のセンテンスは面白い
どんどん発想力を生んでくれる
だから村上春樹は人気があるのだなとつくづく思ってしまう
なぜならば
物語全体だけではなく個々の文章に深い意味が存在するからである
だからこんな記事(着こなしに勝手に応用させてもらっている)が書けるのだと思う
まだまだこの特集は続けるつもりであるが
ここまでのまとめをすると
絵画も着こなしも決して完璧がいいのではなく
そこには遊びがあり余白があり未完成の良さがあっていいということを付け加えておきたい
こんな文章もある
P79の日本画家の話である
彼の絵の素晴らしいところはその空白にあった。逆説的な言い方になるが、描かれていない部分にあった。彼はそこをあえて描かないことによって、自分が描きたいものをはっきりと際立たせることができた。
たとえば画面全体にモチーフが散りばめられた絵より
たとえば着ている服が全部柄物より
余白がある絵や無地のアイテムをとり入れた着こなしのほうが
より優れている
もちろん千差万別それぞれの良さは否定しない
また絵を描くときどこでやめようか
未完のまま
あるいはあと一筆入れるかどうか
こんな絵の緊張感は完成された作品よりも面白いことがある
僕は着こなしよりも着崩しのほうが好きである
完璧を求めた着こなしはつまらない
崩したほうが
余白があったほうが
未完成のほうが
よりカッコ良く
よりエロチックだったり
面白さが倍増するのだ
こんなふうに考えると
ズタズタの人生までとは言わないが
ブレまくった人生を歩んでいたほうが
より色々なモノごとを経験吸収できているし
面白い人生に決まっているのではないだろうか
だから僕は村上春樹をまじめに読もうなんてこれポっちも思わない
僕の騎士団長殺しは赤鉛筆のラインや落書きだらけである
この落書きは
それだけ面白い文章がそこには存在するということの証なのだ
村上春樹はリフレッシュタイムが長い
この時間彼は何をやっているのだろうか
とても気になってしまう
それほど村上春樹は多方面の知識を豊富に持っている
しかもその知識は彼の小説のそして彼の人生の昇華に確実に生かされている
僕もそんな風に生きていけたらとあらためて思ってしまう
最後にもう一つこの章に引用文を使うことにする
P83
日本画家からの人生の学びを主人公が思うシーンである
生き方の変更を恐れない勇気、時間を自分側につけることの重要性。そしてまたその上で、自分だけの固有の創作スタイルと主題を見出すこと。もちろん簡単なことではない。しかし人が創作者として生きていくには、何があっても成し遂げなくてはならないことだ。
村上春樹はおそらくこれを実行してきたのではないだろうか
この後にできれば四十歳になる前にと文章は締めくくるのだが
僕はあえてそれは入れないことにした
人生の終わる時までこの気持ちに従って生きていきたいからである
と同時に今日現在まで、まだ成し遂げていないという自己判断がそこには間違いなく存在する
きっかけはあらゆる身近なモノごとに存在する
一番大切なことはそれを見逃さずに
自分自身で体験すること
足を運び実物に接すること
自分が実際に作業すること
たとえそれらのきっかけがネット情報であっても本の知識であってもテレビやラジオやYouTubeチャンネルであっても
それらの情報を自分に活かせるスタンスが大切であり自分側に持ってこれるかどうかが大切なのだ
もちろんそこにあるものは好きなものだけでいい
さて次章を書こうっと、、、、、、、、、、
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